2004年01月04日

中村隆夫の経歴

僕の経歴。ブログ形式で書くとこんな感じかな。ちょっとずつアップデートしていこうと思います。(最終アップデート:2005年4月14日)1965年、新潟県で生まれ、中2の終わりまで三条市で育つ。
 人口約8万人、新潟平野の真ん中にある三条市の、住宅街と田園地帯の境目あたりで生まれ育ちました。家の裏の田んぼでは、夏になると毎日朝夕無数のウシガエル(あの巨大ないわゆる食用ガエルというやつです)がポコッと水面に顔を出し、があがあと大きなうなり声を上げていたのが印象的です。近くに本成寺という大きなお寺(法華宗総本山だそうです)がありました。大きな木がいくつもあって木登りをしたり、お寺の建物を使った独自の鬼ごっこ(「六角堂」で「ろっかくおに」とか)をしたり、まわりの大きな墓地では肝試しなどもよくやりました。お彼岸の頃にはたくさんのお供え物がお墓に置かれるので、調子に乗ってキャラメルやらお菓子やらを墓地で拾って集めていたら、見事にバチが当たり、草むらに埋もれていたろうそく立ての釘が足の裏にずっぽりと刺さってしまい、歩けなくなった記憶があります。友達が呼んできてくれた母親にさんざん怒られながらおんぶしてもらって家に帰りました。
 一方、当時自分では全然認識してませんでしたが、今から考えれば結構オタクな要素の強い子供だったかも知れません。小学6年くらいで仲の良かった友達に感化されて(この友達は僕に輪をかけてオタクだったな。今はソフトウェアのエンジニアをしているはず)、当時出始めたワンボードマイコンいじりにはまりました。あの頃創刊された雑誌「I/O」や「ASCII」に8080系の機械語プログラムを投稿してバイト代をもらって喜んだりしてました。何故か、確かその年(あるいはその前年くらい?)にスタートしたアメリカ横断ウルトラクイズを横目で見ながら、自分の部屋でハンダごてを握って怪しげなものを色々と作り込んでいた記憶が鮮明に残っています。
 中3で親父の転勤の関係で埼玉県川口市に引越。ちょうど初代金八先生がオンエアされていた頃で、校内暴力が社会問題化し始めていた時期でした。そんなときに、まさに校内暴力のメッカとも言えるエリアに転校していった訳で、なかなかインパクトある体験でした。卒業式ではしっかり校舎の3階の窓が割られ、机やいすが投げ捨てられていたような、、、。

1984年、国立東京学芸大学附属高等学校卒業。
 高校時代は弓道部に所属。当時90歳だった吉田能安先生の西荻窪の道場で弓を習い、一応弓道三段を頂きました。部長も務め部活に明け暮れた3年間でした。弓道部やクラスの友達に触発され、1年生の頃フォークギターを買い(確かモーリスのアウトレット品)、3年の頃エレキギターを買い(トーカイのテレキャスター・コピー)、文化祭の中庭ステージで歌ったりしていました。

1989年、東京大学法学部卒業。
 大学時代は運動会ヨット部に所属。470級という二人乗りのディンギーに乗り、色んなレースに出ました。主将を務め、部活三昧の学生生活。毎年、春のインカレが一番大きなレースだったので、4年生の春になる前、3年生の期末試験をほとんど受けずに海に出て、計画的に1年留年までさせてもらいました。留年中には、両親に対して留年の名目にさせてもらっていた第T種国家公務員試験を受験して一応合格。ヨット部現役の間は大学にほとんど顔を出さなかったため学部の成績は最悪でしたが、当時真っ盛りだったバブルのお陰もあって(?)、ヨット部の先輩がいた日銀へ無事就職。

1989年、日本銀行入行。
 営業局 → 熊本支店 → 業務局 → 海外派遣留学<米国UCLAのアンダーソンスクールでMBA取得> → 信用機構局 
 最後の信用機構局では決済システム課に所属し、担当の一つに電子マネー(当時はMONDEXが話題になり始めた頃でした)があったことから、当時勃興しつつあったインターネットの世界で暗号技術を使って仮想銀行を作ると面白いことが出来るという発言をしていた伊藤穣一氏に巡り会いました。無茶苦茶頭が切れて人間的にも超魅力的で、その印象は強烈でした。

1996年、デジタルガレージ取締役CFOに就任。
 強烈な印象を受けていた伊藤氏が、林郁氏とともにデジタルガレージというベンチャー企業を立ち上げたという記事を新聞で見て、半年ぶりくらいで伊藤氏と連絡を取りあって意気投合し、程なく自分も日銀を辞めてCFOとしてジョインし、デジタルガレージの立ち上げに参画することになりました。(1997年から代表取締役副社長COO&CFO。)
 初めて請求書を発行して人からお金を振り込んでもらった時の感激(はじめからビジネスの世界に入っていた人にはあまり違和感がないかも知れませんが、日銀育ちだった僕にとっては大感激でした)、銀行からお金を借りるため初めて個人保証をして数千万円のリスクを背負い込むハンコを押した時の何とも言えない感覚、初めて大型増資をして預金通帳に億円単位の金額が書き込まれた時の何だかバーチャルな感触、いわゆる「貸し渋り」時代の銀行のひどい対応(単なるボヤキにはなりますが、無理矢理貸し付けておいてサッサと引き上げていくあの仕打ちは、ホントにひどい!と強く思いました。もちろん親身になって色々と尽力してくれた担当者や支店長もいらっしゃいましたが)、ネットバブル前のシリコンバレーの牧歌的な雰囲気、初めてのアメリカ企業との契約、などなど、印象深いことは山ほどありますが、それはいずれまた別の機会に。

1999年、インフォシーク社長就任。
 当初デジタルガレージの社内で事業部として運営していたインフォシークを別会社にし、米国インフォシーク社の100%子会社として独立させることになり、初代社長に就任。伊藤氏が、インフォシークとデジタルガレージ両社の会長を務め、林氏がデジタルガレージの社長を単独で務めるという形になりました。
 米国インフォシーク社はこれとほぼ同時期にディズニーに買収され、この結果社長時代のほとんどは親会社ディズニーに対してレポーティングすることとなりました。シリコンバレーの会社の子会社からハリウッドの会社の子会社へ。交渉相手となる米国人もかなり気質が違って、カルチャーの違いを楽しめました。
 しばらくしてディズニーがインターネット関連事業からの大幅な撤退を決定。後にインターネットバブルと言われた株式公開ブームの最後の時期に株式公開で495億円という巨額のキャッシュを手に入れていた楽天が、2000年末にディズニーからインフォシークをおよそ90億円ほどで買収。今度は楽天の子会社となりました。
 このあと、社長を退任して会長となり、さらにしばらく非常勤取締役を務めた後、2003年8月に楽天がインフォシークを完全に吸収合併した時点で退任。

現在は個人会社である有限会社シーエフオー(Clear、Fair、Open-minded の頭文字をとっているつもりです。当然ながら自分のビジネスの出発点だったCFOという役職にも引っかけている訳ですが)の代表として、IT関連を中心とした各種ベンチャー企業や新規事業立ち上げのコンサルティングなどを主な活動としています。今お手伝いをさせていただいている中での唯一の上場企業が株式会社ピーエイ(2004年3月から社外取締役)。ネット系ベンチャーとしては珍しく新潟、長野、福島という地方でのビジネスを原点にした企業で、創業者の加藤社長は今も新潟に自宅を構えているということで、不思議な縁も感じています。
 また、2004年4月からはこうした活動と並行して、東京大学大学院法学政治学研究科(いわゆる法科大学院)の未習者コースで、第一期生の学生として、久し振りにまじめに勉強に取り組み始めました。未習者だけで基礎を勉強した1年があっという間に過ぎて、今は2年生。いわゆる「既習者」と呼ばれる大学の法学部を出たばかりの若い学生の人達にも囲まれながら、法律書とソクラテス・メソッドの授業と格闘しています。
posted by Takao at 08:44| General